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米山梅吉記念館は日本のロータリーの創始者 米山梅吉の遺品等を展示しています

【 目 次 】
1.米山梅吉と福島喜三次の出会い
2.東京ロ―タリ―クラブの設立
3.東京ロータリークラブ会長時代と大震災後の意識変革
4.英米訪問実業団
5.スペシャルコミッショナー、理事
6.地区ガバナー
7.ロータリーの拡大
8.米山梅吉とポール・ハリスおよび その来日
9.米山梅吉の会合での発言
10.時流のなかで
11.戦前の日本ロータリーの終焉

9.米山梅吉の会合での発言

<地区年次大会>
 日本のロータリーにデイストリクト、区が置かれたのは、昭和3年7月のことである。日本、満州、朝鮮を区域とした第70区である。米山は、その初代ガバナーとなった。そして、3度選挙され3期、昭和6年6月までこれをつとめた。
 区が置かれ、毎年1回、区の年次大会が開かれる。このころの年次大会は、毎年4月か5月に行われていた。第70区の退会は、昭和4年4月の第1回から昭和14年4月まで、都合11回開かれた。
 第1回の地区年次大会が昭和4年4月京都で、第2回が昭和5年5月神戸で、第3回が昭和6年5月横浜で開かれた。米山は、ガバナーであるから主催者として、当然出席した。
 その後、昭和14年4月まで、8回の年次大会が開かれた。米山は、昭和13年5月京城で開かれた第10回大会には出席しなかった。また、その翌年度の第11回は、昭和14年4月別府で開かれたが、このときも病気のため出席できなかった。それ以外は、いずれも出席している。
 なお、昭和14年7月からは、日満ロータリー連合会ができ、第70区、第71日、第72区となったが、それぞれの地区ガバナーが指名されたのは、9月28日であり、米山が日満ロータリー連合会長に選ばれたのは、10月9日であった。その翌年の昭和15年5月5、6日、横浜で、第1回の日満ロータリー連合会の退会が開かれ、前夜懇談会も開かれた。
 年次大会での面白い場面を一つ。
 昭和7年4月、大阪で第4回の地区年次大会が開かれた。このとき、ガバナーに井坂孝が再選された。しかし、井坂は、頑としてこれを受け容れなかった。そのときの状況が面白い。
 「米山前ガバナー、平生前スペシャルコミッショナー等壇上の先輩は鳩首協議を初める。何の事はない、相撲に物云ひがついて四本柱協議の有様を髣髴せしめる光景である。『どうしたもんかね』『御苦勞は重々お察しするがやはり井坂君に引き受けてもらはねばなるまい』『でも井坂君の顔は?』『それは頼んで見るさ』『米山さんに一つ御交渉を…』
 此の間井坂ガバナーは裁かるゝ身を、椅子に腰かけて腕組みしたまゝ、眉一つ動かさぬ。軈て米山前ガバナー腰を上げ、歩を井坂ガバナーのほとりに進めて耳打數刻。何の話があったか、米山氏熱心に口説くが如し。一同片唾を飲む。井坂ガバナー頑張って居るぞ。中々首を縦に振らぬ。一二應答はする。而も遂に首の動いたのを見ず。米山前ガバナーやをら身を退けて壇に向ふ。雨か風か。」
 結局、昼の会議では承諾が得られなかった。その夜の晩餐会でのことである。米山、挨拶を請われて曰く。
 「…そこで選挙委員長の平生君が壇上に立って、選擧の結果を報告して、さうして最後に井坂君に向つて、愬ふるが如く。願ふが如く、餘程鄭重な御辭儀をした。其御辭儀振りは、誠に叮嚀なものであつたのであります。然るに井坂君は中々之に應ずる色がない。
               ( 中 略 )
 兎に角今日はもう一年井坂君に願ふと云うことに決まりましたが今申す通り井坂君は未だ快い御挨拶をなさらぬのであります。此處には井坂夫人も居られるし、又其の他の御婦人も大勢居られるのでありますから、どうか井坂君が是から快い挨拶をして呉れるやう、快く引受けたと云ふ顔をして呉れるやうに、御婦人方の御盡力をお願ひするのであります。
 空の星は空の詩であり、歌であると申します。又人生に於ける婦人は人生の詩であり歌であると申します。若し婦人がなかつたならば、此世は誠に暗Kなものだと思ひます。」と。
 これによって、井坂、承けたような承けないような。

<本部特派代表>
 地区の年次大会には、本部から国際ロータリーの会長の代理が特派される。この特派の役目は、国際ロータリーの現状を説明し、その地区のロータリーを指導し、問題点を把握することであろう。 
 第1回の米山ガバナーのときは、特に特派が派遣されなかった。米山は、強いていえば、ガバナーたる自分がそれであると言っている。
 第2回は、マルホーランドが派遣された。この人は、国際ロータリーという前の1915-16年、国際連合会の会長を務めた。オハイオ州出身の弁護士で、シェルドンとともに、初期ロータリーにおける、理論形成の双璧といわれるという。
 第3回は、米山がガバナーで、昭和6年5月、横浜で開かれた。このときは派遣されなかった。米山は、これについて、昭和6年5月1日付のガバナー通信で、「各國各地の區大會には大抵本部より現任會長理事又は前の國際役員等を手分けして立會ふことゝなり居り、時には臨時に其地方の或代表的なロータリヤンを選任委嘱することもあり、昨年の區大會にマルホーランド氏の來れるも其れなるが、本年は誰も寄越さぬとのこと、之も餘りに遠距離なる為めなれど、本部は元來日本を重要視し前年サツトン氏の如きも見えたることなるが、日本のロータリーは意外に進歩せるものにて、餘り世話を焼く必要を認めずと云うこともあるようなり、但し自惚れは禁物に候 因に、本年各國の區大會中、日本の其れに本部より代表者を送らざることゝ、第五十三區のニュージーランドが彼の震災のために休會すると云ふことなど特異の例なり」といっている。
 米山にいわせれば、遠方であることに加え、うぬぼれかもしれないが、日本のロータリーは出来がよくて、特に指導、助言をすることもないからだろうという。
 昭和7年4月の第4回から昭和9年5月の第6回までの3回は、いずれも米山がその役目であった。
 昭和10年5月の京都のときの第7回には、サットンが来た。サットンは、昭和3年10月、国際ロータリーの会長として、東京で行われた第2回太平洋地域ロータリー大会に来た。そのときの日本の好印象から、大いに日本びいきとなった。そのときにも触れたがメキシコ籍である。その翌年11年5月、神戸の第8回には、マッカローが来る手筈であった。大会前の4月上旬、横浜に上陸し、東京クラブに立寄った。その後、神戸の担当者は、大阪で迎えたが、そのまま、支那南部へ向かった。ところが、上海で、予定したが、船が嵐で出帆できず、次便で神戸に着いたときは、すでに大会は終わっていて、大会に間に合わなかった。このため、米山がそのメッセージを読み、予定されていた時間の穴埋めに米山、井坂、村田の3人の元ガバナーが演説した。マッカローのことは、米山の話のなかで詳しく述べられている。
 昭和12年5月の第9回、札幌のときは、米山であった。
 昭和13年5月の京城での第10回のときは、元ガバナー朝吹常吉がその立場であった。このときは、米山は出席していない。
 昭和14年4月の第11回別府のときは、元ガバナー村田省蔵であった。このときは、米山は病気で出席できなかった。
 このように、海外から本部の会長代理が派遣されないときは、米山が出席していれば、米山がその役目を果たしていた。
 なお、第1回の地区協議会(昭和6年9月19日 京都 ガバナー井坂孝)に、特派として、米山が派遣されたことがあった。これについては、米山は、規則にはないが、本部から人を出すのが習慣で、自分が当てられた、といっている。地区協議会については、これ以外ないようである。

<前夜懇談会>
 第7回の昭和10年5月の年次大会のときは、村田省蔵がガバナーで、京都で開かれた。このときから、大会の前夜、前夜懇談会が行われるようになり、以降これが続いた、
 このことについて、村田は、「今回初めて此前夜研究懇談會と云ふものを拵つて見たのであります。此のことは御承知でもありませうが、七年以前に御當地で第一回の大會を開きました時に、其の當時のガバナーであられた米山さんが、前夜に一つ研究會見たいなことをやつたらどうかと云ふことを言はれたことがあります。御當人は御記憶であるかどうか分かりませぬが、私は其のことを記憶して居りましたので、實は試みて見たのであります。」といっている。
 これら前夜懇談会は、ごく例外を除き、実に活発な発言があり、それぞれ議論がたたかわされている。

<地区協議会>
 ところで、地区協議会は、米山のガバナーのときは、開かれなかった。米山のガバナーが終わった昭和6年から地区協議会が行われるようになった。それも年度初めにということで、多くは8月に開かれた。米山は、最初の協議会のときの挨拶で、次のようなことを述べている。すなわち、「地区になって、数年間は準備時代で、規則どおりやる必要はなかった、地区の大会と協議会を兼ねることもできるし、日本は狭いので行き来が簡単にできるので、しばらくはやらないということで承諾を得ていた、でも、そろそろそうも行かなくなり、ガバナー(井坂孝)に相談し、皆さんの承諾を得て、今日になった。」と。
 この地区協議会について、全ての記録があるわけでないが、米山は、記録のあるもののなかでは、昭和9年8月の村田ガバナーのときの高野山でのそれに出席しなかったが、その他は出席している。

<発言の内容>
 米山は、これら会合のなかで、元ガバナーあるいは初代ガバナーとして、また本部からの特別代表として、いつも挨拶を求められる。前夜懇談会や地区協議会のなかの議論においても、積極的に発言し、議論をリードしようとしている。これら、米山の発言は、ロータリーについて、米山の考えの変遷なども興味あるところである。

<大阪ロータリークラブ>
 米山と大阪クラブとは何となくしっくりいかない面があったという。そんなとき、当時大阪クラブの山本為三郎がこれを改善しようとした。米山は、一見堅苦しく見えるが非常に友情に篤く、それを実際にも行なっている。たとえば、自分達クラブの土屋元作に対してであるといって、会員にその実情を説いた。大阪クラブではそうだったのかと、ガバナーの任が終わろうとする慰労をかねて、例会の日に、米山を大阪に招待した。
 米山は、昭和6年6月12日朝9時40分、大阪、梅田駅に着いた。これには、会長他何人かが出迎えた。例会で、先に大阪クラブがポール・ハリス、チェスリー・ペリーに送ったと同じ記念章を贈り、例会における通常の行事以外のすべての時間を米山に与えた。米山は、40分間にわたり、ロータリーについての思いのたけを話した。例会が終わった後、2時間半にわたり、有志10名ほどとロータリーのことなどを懇談をした。夜は6時から歓迎会が行われた。ここでも、酒間、米山の大阪勤務時の懐旧談などが10時半まで続いた。これだけの時間、大阪クラブの会員とうち解けて語り合えたことは、米山にとって、何にもましての人生の贈り物であったことであろう。そして、大阪クラブとの何とはないわだかまりも解けたことであった。

<ラジオ放送>
 米山は、昭和4年2月23日のロータリー創立記念日に、東京中央放送局から「ロータリー・クラブ」と題してラジオ放送をした。また、先にも触れたように、昭和6年3月28日、台北クラブ発会式のときにも、台北JFAK放送局から「国際ロータリーの組織に就いて」と題してラジオ放送をしている。
 ところで、昭和13年2月仙台に、昭和14年2月に盛岡ロータリークラブが誕生した。時勢がだんだんと苦しくなり、なかなかその披露である認証伝達式が行なわれなかった。そんなとき、昭和14年10月1日、両クラブが合同でこれを行なった。
 もう時局は、退っ引きならないものであった。昭和6年9月の満州事変、昭和7年5月の五・一五事件、昭和8年3月の国際連盟脱退、昭和11年2月の二・二六事件、昭和12年7月の盧溝橋事件、11月の日独伊防共協定調印、昭和13年3月国家総動員法の成立、昭和14年5月にはノモンハン事件などと続き、同年9月には欧州で第二次世界大戦が始まった。戦時色が強くなる一方で、世の中の思想、主義、主張への弾圧も強まり、ロータリーに対しても、いわれなき圧力が厳しくなっていた。
 そんななかで、「国際ロータリーの精神」という題で放送をした。
 これは、ロータリーの会合での発言やロータリーの会員宛の文書のものではない。ラジオ放送という一般向けのものである。当時の社会情勢のなかでのものであるとき、世間におもねたり、迎合するものでなく、敢然とロータリーの意義を説き、誤解を解こうとするものである。勇気あるものというべきである。相当に長文のもので、坂本の『覚書』に載せられている。
 放送といえば、米山は、昭和12年11月11日、「戦争と宣伝」という題で、NHKから外国特にアメリカ向けの放送をしている。さらに、昭和15年7月8日にも、アメリカ向けのラジオ放送(JAPK)をした。

10.時流のなかで


日本でのロータリークラブの数がふえてくると、ロータリーの日本化ということがいわれるようになった。日本化ということが適切な表現化どうかわからない。しかし、その議論されたものについて、米山の意見や行動をたどってみる。
ただ、これも純粋に日本のロータリーをどのようにすべきかということとは別に、当時の時代背景の中で、如何に日本のロータリーを維持するかといういわば合目的な議論とからんで、ことを複雑にしている。すなわち、純粋にロータリーをどうするのかの考えと同時に、強くなりつつあったロータリーに対する軍部などの圧力の回避との関連である。このようなことから、ことの本質を見にくくしている。残念であるが、多くが後者との関連で進められてきた。

<日本語訳>
 早いころから、ロータリーの文献、資料の翻訳が話題に上がるようになった。これなどは、日本化というより、どのように日本語訳をするかである。
 米山は、要はみんな英語が出来る人なのだから、無理に日本語訳することはないではないかという考えであった。東京クラブではもちろんそうであったろうし、横浜クラブなどは、昭和2年の創立であるが、例会も、会報も皆英語であったという。
 しかし、ロータリーの拡大にともない、クラブの数もふえ、会員の数も増えてくるとそうとばかりいっていられなくなった。それ以上に、会員の家族もロータリーの会合に参加することもあるし、一般に対してもロータリーを押し広めなければならない。そんなことで、会員から、諸資料、定款、細則などの日本語訳の要請は強く、地区大会や地区協議会などで、このようなことが議題となったり、要望として、毎回声が上がったいた。
 そんなことから、米山は、翻訳の必要、日本語化の必要を認めるようになった。
 第1回地区年次大会(昭04.04)では、「翻訳も種々試みてみた。東京に委員を置いて、他クラブの同意を求めることにしたのである。とにかく難しい。第一サーヴヰスという言葉これが實に難しい。だから英語のままの方がよいと思われる。」というようなことであった。
 第7回地区大会(昭10.05)では、「いろいろいうけれど、今ほとんど日本語でやっている、ある専門的な言葉が翻訳できないでそのまま使っているだけである。なまじ翻訳すると、かえって混乱が生ずる。そのまま使っても、そのことで日本の精神がそこなわれるわけでもない。とにかく急がないで、良い翻訳を探すようにしよう。」という。
 第8回地区大会(昭11.05)でも、日本語訳するのはいいが、この翻訳が難しい、いい方法がないか、委員会でも作り、むしろ部外者例えば英語学者で、宗教、哲学、文学的素養のある人にやってもらえったら、などのこともいう。
 今のSAAなど、あとあとまでもサージェント・アット・アームスといっていた。ガバナーを監督とするということは、ある程度早くからいわれていた。それが昭和14年8月の地区協議会の記事では、総監督となっていた。なにか違和感を覚える。
 このように純粋にロータリーのためにロータリーをどうするかとは別に、時代が下って、英語は敵性後でえあるなどという風潮が高まってくる、そんなことから無理矢理日本語にしようとする。こんなことが今ロータリーの日本化という言葉を見ていていやな思いを抱かせる。

<大連宣言>
 大連宣言というのは、大連クラブの古沢丈作の草案になる以下のようなものである、大連クラブでは、これをクラブの「ロータリー宣言」として使っていた。
第1 須らく事業の人たるに先立ちて道義の人たるべし。蓋し事業の経営に全力を
   傾倒するは因って世を益せんがためなり。ゆえに吾人は道義を無視していわ
   ゆる事業の成功を獲んとする者に与せず。

第2 成否を曰うに先立ち退いて義務を尽さむことを思い進んで奉仕を完うせんこ
   とを念う。自らを利するに先立ちて他を益せむことを願う。最も能く奉仕す
   者は、最も多く満たされるべきことを吾人は疑わず。

第3 あるいは特殊の関係をもって機会を壟断しあるいは世人の潔しとせざるに乗
   じて巨利を博す、これ吾人の最も忌むところなり、吾人の精神に反してその
   信条をみだるは利のため義を失うよりははなはだしきは無し。

第4 義をもって集まり、信をもって結び、切磋し琢磨し相扶け相益す。これ吾人
   団結の本旨なり。しかれども党をもって厚くすることなく他をもって拒むこ
   となく私をもって党する者にあらざるなり。

第5 徒爾なる角逐と闘争とは世に行なわるべからず、協力もって博愛平等の理想
   を実現せざるべからず、しかり吾が同志はこの大義を世界に敷かむがために
   活躍す吾がロータリーの崇高なる使命ここに在り、その存在の意義またここ
   に在す。

 古沢丈作は、日清製油大連支店長で、終戦後東京クラブの会長をもつとめた。そのとき、古沢のイニシアチブで米山ファンドができた。
 古沢は、ロータリーの綱領とロータリー倫理訓を毎日音読し、ついにその本位を会得し、それを自らの言葉で文章を作った。これは、格調高い日本語による適格な表現で、高い評価を受けていたという。
 米山は、昭和5年4月の第1回地区大会のガバナー再選の挨拶で、この古沢の行動を「大連の古澤氏より過日誠に涙ぐましい話を承ったが、それは大連が熱心で、クラブをサーヴヰスの上におく。六の目的、十一のコードを翻譯しお經をよむやうに叉、祈るやうにしたいと言ふ希望である。實に感じ入ったのである。」とたたえている。
 昭和11年5月の第8回地区大会の前夜懇談会で、神戸クラブの直木太一郎が「大連ロータリークラブのロータリー宣言は、日本文として適切にロータリーの精神をあらわしているから、これを四つの目的(綱領)に代えて、第70地区の宣言にしたい。」と提案した。
 これに対し、米山の言うところは次のようである。
 ロータリーという大きな組織については、これを結びつける何かが必要である。この結びつけるものが四つのオブジェクトである。これによって、すべてが結びついている。ロータリーというのは国際組織であるが、これによって、世界中のロータリーの組織が結びついている。これをロータリーの宣言といっている。この宣言の解釈はいろいろある。それはそれでよい。この四つの宣言にも議論があって、六つが四つになった。これがまた変わるかもしれない。そのような曲折を経た宣言である。いま、第70地区がこれを宣言に採用するというのは、これを混乱させ、穏やかではない。オブジェクトを離れてしまって、ナン オブジェクトにして、これが第70区の宣言であるというのは、ロータリーをこしらえたことの根本にもとることになる。エキスプラネーションということで差支えない。
 すなわち米山は、「ロータリーの地方分権を否定するものではないが、ロータリーは、国際組織である。どうしても保持されなければならない何かがある。それは、ロータリーの綱領である。大連宣言を第70区(日本ロータリー)の宣言(綱領)にするというのは、これを超えてしまい、国際ロータリーの組織をはずれることになる。」というのである。
 前ガバナーの村田省蔵は、「ロータリーのオブゼクトといふものは兎に角決つております、而も六つのオブゼクトが四つになりまして、昨年これが決つたのであります。然るに日本がこれは七十區だけの宣言ではありますけれども矢張りオブゼクトを五つにして、かういふやうに書いてありますと、そこに何か日本丈に起つたんぢやないかといふ邪推をされる處がありはしないか、…。私はこれを宣言として或は綱領にこれを使ふといふことはどうかと思ひます。要するにこの五つの宣言が矢張り四つのオブゼクトから出てゐるのでありますから、これをオブゼクトにまでしないで、・・・かういふことを何かオブゼクトを助ける一の材料に、さういふ様な意味に使ふといふ位ではどうでせうか ---- 敷衍ですか、そうしてそれを四オブゼクトを説明する時にかういふものをお使ひになりますとこれは日本人の頭にすぐ來ると思ひます、…かういふものが非常にいゝといふことを各クラブが御感付きになつて、さうしてこれをなるべく利用するといふ程度位で如何でせう。」と扱いは、米山の考えと同じであった。もっとも、村田は、これはよくできている、「四オブゼクトへも寧ろかういふ精神を入れたいと思ふ、ですから、出來れば日本のロータリアンがもっと研究に研究を重ねて、さうしてあの四オブゼクトを今に日本に變へるといふ處までロータリアンは充分御研究を願ひたいと思ふ。」ということもいった。しかし、記録からは、必ずしも英訳してシカゴ本部へロータリーの綱領を改正するよう提案したらどうかというニュアンスは読み取れない。
 結局、この提案は、議論の末、綱領の変更ではなく、それを演義説明するものとして利用するという扱いとなった。

<地方分権>
 中央集権制か地方分権制かと図式化して議論すれば、地方分権の旗色がいいに決まっている。別にそうだからというわけではないが、米山は、早くからそのような主張をしていた。
 第2回の年次大会(昭05.05)で、「ロータリーは、インターナショナルな力強い運動である。その起源がアメリカであるからといって、一から十までアメリカ式にやる必要はない。日本のロータリーは、日本独自の行き方を加味してよい。」といっている。
 また、ガバナー通信の昭和5年7月25日号でも、次のような所信を述べる。「自からなる愛郷心、自國の歴史に對づる傳統的の誇り、結局國家的観念より來る純粋なる熱情が充分に発動して、國際敵観念と合して崇高なる人類愛となり、然る後世界の平和を企圖致すべきは勿論に有之、各國人情風俗を異にしながら一様の動作に出づることは無理」であり必要もない。そして、日本が急な拡大方針をとらないことに、ようやく本部も理解するようになった。しかし、「吾等は此RI組織に加盟せる以上本部の國により其事情を異にすればと申す意味を餘りに自由勝手に解釋致しても相成らず、主としてRIの精神に共鳴するは勿論に候へども、此有力驚くべき組織を語る種々の規則習慣は、益大に尊重致度在候。」という。極めて、常識的で納得しうるものである。
 第3回の地区大会(昭06.05)では、中央集権主義の不可なること。地方分権であれという持論を展開する。そうして、「国際ロータリーが年とともに変わっていくだろうが、自分も希望的な想像ではあるが、それを描いているところがある、いずれ発表したい。」という。このときの発言内容は、昭和6年5月23日付ガバナー通信にも記載されている。
 米山は、昭和10年2月、ポール・ハリス来日の折、歓迎の挨拶をした。そのなかでも、先に見たように、富士登山にたとえて、このことをポール・ハリスやときの国際ロータリーの会長ボブ・ヒルの前で、地方分権の主張をしている。
 神戸の第8回年次大会(昭11.05)の前夜懇談会において、「国際ロータリーの中央集権制を緩和して、地方分権に改めること」という議題が予定されていた。米山は、ここで突然動議として提出された大連宣言の採択の議論では、ロータリーの綱領との関係で混乱を招く、宣言というのはよくない と主張した。
 この地方分権の議題では、これまで見たようにロータリーの地方分権ということを以前から唱えていて、この議論のなかでも、熱っぽく持論を展開した。ロータリーの組織がだんだん大きくなると、中央の本部とのいちいちのやりとりでは、組織を緩慢化させ、やがて硬直化させることになる。その地方、地方の特性を取り入れたものにするのでなければ、組織がもたなくなる。そして、この地方分権というのは、急にというわけではないが、やがて、きっとそうなるという。
 今のロータリーは、結論的にそうなっていない。国際ロータリーは、後に述べる日本の日満連合委員会への改組のときの苦い経験から、日本が戦後、ロータリーに再加入するについて、そのような動きを固く戒めた。
 日本の暗い時代ということで、日本のロータリーは崩壊したが、もしそのようなことがなく推移したとき、米山のいうことは、そのようになっていたであろうか。興味のあるところである。
 ただ、この地方分権、自治組織の求めも、日本において、折から厳しくなりつつあったロータリーへの風当たりをいかに避けるかの方策とも関係してくる。

<日満ロータリー連合会>
 昭和13年5月15、16日、京城で年次大会が行われた、いわゆる内地から270名の出席があった、このとき、米山は、出席することができなかった。ガバナーは、里見純吉で、会議で朝鮮総督の南次郎、懇親晩餐会では、朝鮮軍司令官の小磯國昭が挨拶をした。形式的な挨拶ではなく、講演というもので、総督のものは30分にも及ぶものであった。ロータリーの意義にも触れ、ロータリーを敵視するというより、ロータリーの趣旨に則って国のために役立てて欲しいというものであった。
 もっとも、ここでの大会決議は、出征将兵への感謝電報とか出征将兵に対し慰問を為すことなど、いわば時流を映すものであった。
 米山は、このような時流のなかで、このままの内容の組織では、日本のロータリーは押しつぶされると感知したことであろう。この年8月6日、新しいガバナー松本健次郎のもとに、比叡山で地区協議会が行われた。ここで、米山は、東京クラブとしてであるが、日本ロータリーの改組案を研究することの提案をした。そして、その研究委員会がもうけられることになった。何回かの検討が行われた。しかし、成案を得られる前に、米山は昭和13年11月、病を得て入院することになってしまった。なお、米山は、その年12月9日、貴族院議員に選ばれた。
 一方、時勢としては、昭和14年6月のクリーブランドの大会で日本ロータリー改組が認められなければという逼迫したものとなっていた。本来は、地区の大会なりで承認を得てすることであろうが、そのいとまのないまま、札幌クラブの宮脇冨によりとりあえずの成案となった第70区機構改組案を国際ロータリー定款、細則による修正案提出の期限に間に合わせるため、急ぎ仮の修正案として国際ロータリー本部へ送った。そして、米山が健康を回復したときは、その了承のもとに正規の案とし、変更があれば電文で通知することとした。
 國際ロータリー月報、昭和14年1月号に、このとき提案された案、すなわち改組案研究委員会の「第70區改組草案(宮脇案)概要なるものが載っている。これは、以下のような内容である。

・統轄機関
 日滿ロータリーの統括機関として新たに評議委員会を設け、その評議委員会は
 左記地區内の会員より選出さるる9名の評議員(地方小區代表員と呼ぶ)及び日
 滿ロータリー会長と前期会長及び他の第70區の役員(副会長、幹事、会計)を
 以て組織し日滿ロータリー会長は評議会々長となる。

・評議員選擧區域
 上記9名の評議員は左記地域内の倶楽部会員より選出する。(一)北海道、
 (二)樺太、(三)関東、東北、中部地方、(四)関西、中國、(五)四國、
 (六)九州、(七)台灣、(八)朝鮮、(九)滿州 

・評議員の権限
 この評議員会の権限は日滿國際ロータリーの定款並に細則の定むる所により日
 滿國際ロータリーの事務並びに資金を統括管掌する。
 但し当該会計年度の日滿ロータリーの予算収入を超過する負債を為すを得ず。

・役員の選擧の方法
 日滿ロータリーの役員は、会長、副会長、幹事、会計及び九名の地方小區ロー
 タリー代表全員であって、会長は細則の規定により指名し、毎年の區大会に於
 て有権代議員の投票過半数を以て選定し、他の役員は細則の定むる所により指
 名の上選擧する。區大会に於て選擧されし会長の姓名は國際大会に於てRIの
 役員として選擧を受くる為め中央事務局に通告する。

・定期大会と臨時大会 (省 略)

・區大会の組織 (省 略)

・代議員の出席 (省 略)

・無所属代議員 (省 略)

・日滿ロータリー執務章定
 區内倶楽部の執務は評議員会の一般的監督の下に置かるゝものとし、評議会は
 國際ロータリー理事会に対し義務を負ふものとす。

・定款と細則の修正 (省 略)

・会費及び使途
 日滿ロータリー会員は毎半期金5円を会費として日滿ロータリー本部に納付す
 る。而してその使途及び管理は評議会の権限内に対し、國際ロータリーに対し
 ては毎半期双方協議の上適当と思惟さるゝ金額を支払つて種々なる斡旋に酬ひ
 國際ロータリーより一切支弁を受くる事なく独立会計となる。

わかりにくい内容であるが、『ロータリー日本五十年史』には、次のように要約されている

第1 第七〇地區を日滿ロータリーと改称して自治体とする。

第2 ガバナーの名称も日滿ロータリー会長と改めわれわれが選擧して國際ロー
   タリーに報告し國際ロータリーはこれを役員として認めること。

第3 日滿ロータリーの統括機関として評議員会を設ける。全國を[前記の通り]
   9地區に分け地域別に選出さるる評議員および日滿ロータリー会長と前会
   長、副会長、幹事、会計をもって評議員会を組織する。

第4 会長に新クラブのチャーターの付与権および分担金の徴収権を与えること。

第5 会計は國際ロータリーより独立し毎半期ごとに双方協議の上適当な金額を
   國際ロータリーへ支払い種々の斡旋に報いる。

第6 RIとの折衝は日滿ロータリーが当たり國際ロータリーの精神、組織、目
   的の維持に協力し一切の責に任ずる。

第7 大会は各クラブから選出される代議員で組織され(中略)る。

 そんなころ、国際ロータリーの特派員である名誉副幹事のアレキス・ポタアが昭和14年3月4日から10日まで来日した。ポタアのいうのは、中央事務局へ送られた改正案は、まず実現不可能である。国家を起点とするロータリー機構(National Unitiの組織)では、認められるとは思えない。せめて、管理地域(Area administration)の自治制度、すなわち現在の第70区をいくつかに分割して、一つの管理地域というにするのであれば、見込みがあるかもしれない、という示唆であった。そして、この改組を遂行するとすれば、例えば以下のようなことであろうかという。そして、急いで着手すれば、次の世界大会で、第70区改組の目的を実現する見込みがあるだろうということでもあった。

一 現在の第七十區を三區に分割すること、假令ば北海道東北地方を第一區とし、關東、
  關西、中國、四國を第二區とし、九州、滿州、朝鮮、臺灣を第三區とすること

二 その三區に分割されし倶樂部の衆團より管理地区設置の請求を提出すること(但し、
  區大會の可否あるを要す)

三 改組を急速に遂行せんとすれば來る六月十二日〜十六日のホワイト・サルファー・
  スプリングに開催さるゝ協議會に提出して同會の賛助をへて立法委員會に提出する
  必要あり、従つて第七十區代表者を急速に中央事務局に派遣し其の豫備行動に着手
  すべく、遅くとも來る五月三十日迄にその手段を採る必要あり

 ガバナーは、この示唆をうけて、急ぎこれに則った内容の案を提案し直した。その案(地域統括制度)の概略は、国際ロータリー月報、昭和14年8月号に掲載されている。
 このような状況下で、昭和14年4月29日、30日、別府で、第11回の年次大会が開かれた。ここで、ポタアの示唆をも容れたArea administrationの案を提案することを承認(追認)した。そして、その実現のため、シカゴの本部に人を派遣することとなった。それには、米山をおいてないということになるであろうが、なにせ、米山は、前年暮れから入院し、2月20日に聖路加病院を退院したばかりである。この大会でも、米山に対して、「初代ガバナー米山梅吉氏に對し、病気見舞の電報を發すること。」という決議までされている位である。この時期に行ってもらうことは、体力的に無理であった。
 それで、自らもいっている「貧乏籤」を引いたのがガバナー事務所幹事の芝染太郎であった。芝は、悲壮な思いで、昭和14年5月11日、米国に向け旅立った。芝の心中を察するとすれば、死地に赴く荊軻の如き心情であったろうか。芝としては、また米山にしても、その接渉に成算ありとは考えていなかった。なんとか何がしかの譲歩を得たいという気持ちであったろう。米山が芝にあてた所感、赴く芝の思いが国際ロータリー月報 昭和14年5月号に載っているので、そのまま引用する。紙背に当時の切迫したものをくみ取ることができるであろう。

  拝 啓
   貴下には不日米國に向け御出發のこと誠に御苦勞に奉存候何卒御自愛御成功の程偏に
  祈上候
   小生昨冬來病気に付松本總理始めロータリアン諸契に不一方御心配相掛け恐縮の至、
  是迄ヂストリクト・コンフヱレンスには毎年大概出席致來り候に今回九州の其れには遂
  遂に不参加何共残念に候然るに別府御會合の席上御一同より御見舞の御電信を恭うし真
  に難有感鳴仕候御陰を以て病気は己に殆ど全快仕り尚暫く静養罷在候處に有之御序に諸
  契に可然御披露貴下より宣布御禮願上候
   本年の國際ロータリー大會には時局下我國よりは出席者甚だ乏しきこと不得止次等然
  るに其の重要性は従來の大會に對すると大に殊なる處有之我方豫ての提案を控へ各國多
  數の出席者を前にして貴下が我が代表として殊に此に當られ候御任務は容易ならざるも
  のあり御骨折の程拜察致候幸にして我邦ロータリーが全世界の同組織中に今や有力なる
  地位を占め我方の希望主張は歴代の國際會長を始め多數の人士の諒と至候處には候へ共
  兎角無事に慣れ來候RI大會並に其の附属機關にとり中々以て大問題に有之一氣呵成は
  困難かとも被存候好し我方當初の提案通り通過致さずとも大精神が貫徹致候へば形式上
  の多少の譲歩は止むを得ざることかとも存候要はヱリア・アドミニストレーションの意
  義擴充に有之候國際主義と國家主義は何處までも兩立致すべき筈、御代讀御依頼申上候
  小生の大會に對するメッセージが此間に多少御役に相立ち提案支持の一助とも相成候
  はゞ仕合せ此事に存候
  御出立前御多忙可被爲入當日小生は御見送りも到得間敷切に御安全なる御航海を祈上候
                                      敬 具
   昭和十四年五月六日
                                  米 山 梅 吉
   芝  幹事 殿


  出立に臨んで
   私は今日出征するような氣持で渡米します
  目的の遂行と失敗とは必すしもこの瞬間に於ける私の關心する處ではありません、命を
  かけて目的に忠實であればそれで吾が事終われりと信じます
  第七十區の希望するような改組案が本年の國際ロータリー大會を通過するものとは夢に
  も考へられません。然かし第七十區を自治制度に改組せねばならぬと云ふことは吾が會
  員の総意であつて、是非共必ず貫徹せねばならぬ重大目的であると確信致します。夫れ
  故に第七十區會員の總意とその正當なる主張と幾分たりとも世界のロータリアンへ理解
  せしむる目的の一石となれば使命を空くせぬものと信じて、此度の貧乏籤を勇敢に甘受
  致しました。出來得べからずと信ずることさへも喜んで且つ忠實に勤め得ることはロー
  タリー精神が私に教へた感謝すべき最大の教訓であると信じて居ります。
   目的の遂行も出來ず同時に相手側の感情を害するのは下の下で、成功せずとも感情を
  損ぜぬのが下の中、相手側を快く納得せしめて將來に目的を遂行し得るように成し得れ
  ば下の上であるかと考えて居ります。
   私はこの「下の上」にまで漕ぎ付ければ別に太平洋の眞中で立往生をするにも及ぶま
  いかと考へて病床に在る九十一歳の母に暇乞して只今吾が家を出發いたします。
   出立に際して激勵の難有き御言葉を下さつた各ロータリー倶樂部や友人達に感激の御
  挨拶を申し遺しまして
    五月十一日
                               日滿ロータリー幹事
                                    芝 染太郎

 また、米山は、前記文章にあるように、国際ロータリーの会長、役員、理事などへのメッセージを芝に託した。芝はこのメッセージを現地のそれぞれの場面で、三度読んで、日本のロータリーの切実なるものを訴えた。この米山の文章は、聞く者の共感を得たようで、芝は、交渉に大いに役立つたといっている。
 国際ロータリーの幹部も、「このまま第70区の案が国際協議会、国際大会に提出されるときは、大混乱に陥り、収拾がつかなくなる。それは得策でない。一方では、芝の必死の訴えである日本の事情も容れてやりたい。それには、正式の立法委員会、国際大会での決議という方法でなく、理事会の権限、決議のなかで処理できる方法はないか。」と、ホワイト・サルファーの国際協議会に出かけるぎりぎりまで、シカゴで理事会が続けられた。それは、地域管轄制度では、理事会の権限ではできない。委員会制度がフランスやカナダで行われている。双方の妥協点がこの辺りであった。芝は、これで妥協することとした。理事会がそのような委員会制をまとめたのは、理事、役員が国際協議会に出発しなければならない6月10日のぎりぎりの時間であった。
 芝は、こうして、国際協議会の後のクリーブランドの国際大会で、日本が提案した先の改組案を撤回した。
 昭和14年6月10日の国際ロータリーの理事会によって認められた委員会制の内容は次のとおりであった。(国際ロータリー月報 昭14.08)

 國際ロータリー日滿聯合委員會組織(概要)
・従來の第七十區を改組し左の三區を設く
 第七十區  北海道、東北及び關東(金澤、名古屋、岐阜、四日市を含む)
 第七十一區 關西(四國、九州、台湾を含む)
 第七十二區 滿、鮮及び關東州
・以上の三區の総括機關として國際ロータリー日滿聯合委員會を設く
  會 長  一名   區監督  三名
  前監督  三名   前會長  一名
  合 計  八名
・委員會員の任期を壹ヶ年とす、但し再任することを得
・會長は三區聯合大會の期間中上記委員會に於て選擧す
・委員會は委員長の指定する時及び場所に於て開會す
・委員會は二名若くは二名以上の委員の請求ある時委員長召集す
・委員會の票決は委員の過半數とす
・日滿ロータリー委員會は上記三區に關する萬般の事務及び各區間の連絡、共通の會計を統制管理す
・委員會は會計及び幹事を任命す
・監督の選擧は聯合委員會を通じてRI中央事務局に通告しRI大會に於て監督はRI役員に選擧する
 ものとす
・監督は區内各倶楽部の管理指導に任ずること従來のガバナーに同じ
・各區の報告類は各區監督よる聯合委員會に提出するものとす
・従來の會費年額四弗五十仙の半額即ち二弗二十五仙をRI中央事務局維持費として負擔し、残高を
 委員會に保留し聯合事務費に充つ
・各區はRI定款の定むる處に據り年度毎に監督を選出す

 芝は、不満のような口ぶりで、当時の心境を書いているが、内心ほっとしたであろう。そして、米山や周囲は、期待以上の結果と考え、胸をなで下ろした。米山は国際ロータリーにお礼の書信をしたためた。今、それがどのようなものであるかわからないが、先方からの手紙がある。一つは、国際ロータリー会長のヘーガーからのもの、もう一つは、第2回の地区年次大会に本部代表として出席したマルホーランドからのものである。ヘーガーからのものは記念館に陳列されている。

ベーガーからの手紙


 かくて昭和14年8月26日、東京会館で、第70区協議会が行われた。各クラブから22名の日滿ロータリー連合会規約作成の起草委員が選ばれ、9月15日新しい規約ができた。第70区は三つに分かれ、新第70区は名古屋以東の東日本の20クラブ、第71区は西日本および台湾の19クラブ、そして第72区は朝鮮、満州の3クラブとなった。米山梅吉、村田省蔵、朝吹常吉、里見純吉、松本健次郎および森村市左衛門の6名がガバナー指名委員とされ、9月28日ガバナーには、第70区は東京の森村市左衛門、第71区は京都の大沢徳太郎、そして第72区は大連の貝瀬謹吾が指名された。日満ロータリー月報の昭和15年1月号に、日滿ロータリー連合会長としての米山の新年の辞がのっている。今回の改組制度について、「日本のロータリーもRIBIのような国家単位の独立組織を欲したが、フランスなどにならって、日本と満州国との連合委員会の制度を得た。これも今後さらに進歩改良すべきである。」といっている。
 第1回の日滿ロータリー地区連合年次大会が昭和15年5月5日、6日、横浜で開かれた。この大会で、日滿ロータリー連合会長には米山梅吉が選ばれ、第70区の次のガバナーに横浜の平沼亮三、第71区は神戸の岡崎忠雄、第72区は京城の篠田治策が選ばれた。そして、次の大会開催地として、大阪に決定したが、その後日本が国際ロータリーを脱退したため、この大会が連合会としては最初で最後のものとなった。

11.戦前の日本のロータリーの終焉

 米山の切実な願い、芝の血の出るような折衝で、完全とまではいえないにしても、とにかくかちえた日満連合委員会という日本のロータリーであった。しかし、時流は、濁流となって、1年余りで、この日本のロータリーを押し流してしまった。
 軍や極端な体制は、東京クラブの会員で貴族院議員である松井茂が貴族院で政府の見解をただし、日本に役立つものであるという答えを引き出しても、そんなことをものともしなかった。世論を自負する新聞の論調もいわばロータリーを袋だたきにするかのような書き方であった。地方の小さなクラブでは、とても押し止めうるような流れではなかった。バラバラと落伍が出て、これが瞬く間に広がった。米山を中心とする日滿連合委員会の幹部が鳩首会議をはじめても、とてもとどめることはできなかった。
 東京クラブは、昭和15年9月11日、例会について臨時休会として、議論した。米山は、腹をくくっていたのであろう。解散やむなしと。議論もつきて、クラブは解散を決議した。終わりに米山が立った。いま、英文『歴史』をもとに、その時の状況を記してみる。
 米山は、苦悩にみちた表情で、重い足を引きずるようにして、壇上に立った。
 「私は、こんなつらい気持ちで話をしなければならなないのは、20年来はじめてである。近藤(次繁)博士の美しい熱のこもった言葉に対しては何とお答へしてよいであらうか。
 私は、ただかかる始末になつたことをお詫びしたい。しかし、我々とても時の流れに対して徒に手を拱いておつたのではない。日滿ロータリー設立の如きもその現れである。
 しかし、時代の流れは余りに急激であった。取るべき途は三つしかない。最後迄ロータリークラブを守り通すか、潔く全て解体してしまうか、国家単位の新し会を組織し、ロータリーの精神を継承するか。インターナショナルの精神は、新しい組織においても絶対にこれを残すべきであると信ずる。奉仕の理想、職業を通しての奉仕、社会への奉仕、これらなくしては、新しい組織も存立の意味をなさない。
 先程、穂積(重威)さんより御注意のあつた国際ロータリーの緊急時の手続きの点も考えて見たが、此際、シカゴ本部の指図を受けないにせよ、国際ロータリーの一組織として存在すると云ふことが困難なのである。
 また、地方の倶楽部がバタバタと解散する以前でしたら、何か施すすべもあったであらう。しかし、東京ロータリークラブのみが孤立してしまつた今ではもう遅い。国家単位の会をつくり、将来世界的にこれをリードすると云ふことが最も賢明な道と信ずる。
 創立以来20年を顧る時、万感胸にせえまるものがある。この間、ロータリークラブが如何に社会に貢献して来たか、その歴史は燦として輝いている。徳川家達公や顕官から幾たびかありがたい思召をいただいている。私のまなこには絵巻物の如くそれ等が髣髴として去来する。
 私は、ただ、皆さんに御礼を申上げ、自分の不行届の点をお詫びしたい。水曜会という名の会合を続けられることはこの美しい会合の空気を維持するために、是非必要と思う。過去のロータリークラブもこれらの会も、皆様方で最もよい道を選ぶべく努力して頂きたい。」
 米山の最後の言葉が終わった後、皆んなで「奉仕の理想」を歌った。この後、会長の中山龍次は、閉会そして解散を告げる最後の点鐘をした。昭和15年9月11日午後1時45分であった。
 こうして、この日東京ロータリークラブは解散した。それでもまだ、国際ロータリーを脱退しないロータリークラブもあった。米山は、日滿ロータリー連合委員会の会長として、昭和15年11月6日付で、解散済みのクラブを含め(といってもこの日まで解散しないで頑張っていたクラブはほんの僅かであったが)、すべてのクラブに次のような一文をしたためた。日本にロータリーが入って、丁度20年が経過していた。
 米山にとっては無念であったに違いない。日本のロータリーは、それを攻撃する勢力以上に、日本という国家、社会のために尽くしてきた、それを国賊呼ばわりするとは何事かと。
 米山は、大正9年10月20日、日本にロータリーの舞台の幕を開けた。以来、自らがディレクターとなり、また主催者として、日本のロータリーの舞台を回してきた。ここに、その幕を自らの手で閉じることになった。
 よくいわれる。冬来たりなば春遠からじと。でも、長い冬のなかにいるとそんな思いが通用しなくなる。日本は、五・一五事件、二・二六事件と軍靴の音がだんだん近く、大きく聞こえるようになった。暗いいやな空気が空を覆うようになった。それがだんだんにより黒く、そしてより広く空を覆い、低く垂れ下がるようになった。とうとう、昭和16年12月8日、無謀な戦争に突入してしまった。
 もう春は来ないのでないか、このまま冬が続くのではないか、そんないやな鬱々とした日が続くようになった。
 米山は、日本のロータリーの幕を引いた後、ときに東京水曜会の例会に出席することがあった。最後に出席したのは、昭和20年12月の夜の家族会であったという。
 そうして、自分の奉仕の最後の仕上げ、緑岡小学校の子供達の生長を見守りながら、やがて病がちとなり、長泉町の別邸に引きこもることが多くなった。空襲が激しくなると、子供達をより目の届くところにと伊豆の湯ヶ島に疎開させる。戦禍は、それをも許すことなく、子供達は、遠い青森に移る。米山は、戦争の終わった後の昭和21年4月28日、長泉町の別邸で、この世を去る。
 戦後の混乱はまだ止まない。でも、春の兆しが見えてきた。そうして、米山のロータリーにとって、昭和24年3月、ようやく春が来た。やはり春が来たのである。
 米山の思いは、東京クラブが提唱して、米山記念奨学会として、大輪の花を咲かせることになった。
 一方、日本のロータリーも巨大な樹木となって、生い茂った。米山にいわせれば、きっと、大きに過ぎはしないかと心配しているに違いない。こんな巨大な組織をどうやって操作するのだと。ロータリーは100年がたち組織披露を起こしている。85年たった日本のロータリーもそうである。創業もさることながら、中興は大事であり、かつ難しい。しっかり中興を考えなければならないぞと、いっているに違いない。



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